閉めても閉めても閉まらない
小説家になろう企画、「夏のホラー2015」参加作品です。
薄暗い通学路。
陽の長い夏といっても、もうだいぶ前に日没してしまった。今は、時折道端に現れる街灯が、遠慮がちにチカチカと点滅をして、足元を薄暗く照らしているだけ。やっぱり、心細い。
本当なら帰宅しているはずの時間。なのに、何故、学校に向かっているのか――
というのも――忘れ物。
中学二年にもなって、と怒られそうだけど、忘れ物をしてしまったから、なんだ。
明日の授業に使うための、大事な予習ノート。あれがなくては、家で勉強もできない。
テニス部の練習も終わり、最初は数人の友達たちと笑いながら下校。もうすぐ家に着く、というそんな場所で、僕はそれに気づいてしまったのだ。
――まったく、ついてない。
仕方なく引き返すことを決意した、僕。益々暗がり度の深まる道を、部活ですでに疲れ切った足を無理矢理交互に前に押し出すようにして、とぼとぼと歩きだした。
◆◇◇
やっとのことでたどり着いた、学校の正門。見ると、もうすでに先生たちも帰ってしまったらしい。どの教室も、職員室までも、その明かりは消えていた。
――うわっ……じゃあ、鍵はもう、閉まっちゃってるってこと?
一応、玄関まで行って、ドアに手をかけてみる。
すぅ……
何故か開いた、いや、開いてしまった入り口の扉。
不用心だな。先生、鍵をかけ忘れちゃったのかよ――なんて思いながらも、僕は宿題のことを思い出し、自分の教室まで急ぐことにする。
――これが、変な世界へと続く扉になってなきゃいいけど。
暗がりを歩いてきたせいだろう……僕は、妙なことを考えていた。
気を取り直し、上履きを履く。
『非常口』と書かれた緑色の明かりが照らす廊下を、何度かつまづきながらも突き抜けて階段を上り、校舎二階の教室の前へ。二年B組――そこが、僕の教室だ。
教室の電気を付け、全体を見渡す。当然、誰もいない。
黒板に向かって前から四列目、左から三番目――
これが僕の机のはず……ちゃんと、椅子の裏には、僕の名前「藤井 一郎」の文字が貼られてあった。間違いない。
机の中を探る――あったあった、宿題のノート。僕はそれをむんずと掴むと、手にしていた鞄の中に、放り込んだ。
――じゃ、お腹も減ったし、急いで家に帰るぞ!
そう思った矢先。僕以外に誰もいないはずの教室に、ふと感じた気配。
その気配は、僕の背中を突き抜けて心臓をぐぐぐ、と掴んだ。妙な、痛みも感じる。
「誰? 先生なの?」
そう云って振り向いた僕を襲ったのは、後頭部の激しい痛みだった。固い棍棒のようなもので殴れたかのような――
目の前が、深い海底に沈んでいくかのように、真っ暗になっていく。
僕はそのまま気を失って、うつ伏せに、床に倒れてしまった。
◇◆◇
「イタタタタ……」
どのくらい時間が経ったのだろう。見当がつかない。
僕は、まだ激しく痛む後頭部を抱えながら、目を覚ました。教室の時計を見ようとしたものの、その文字や針が見えない――それもそのはず。
教室の電気が、消えていたのだから!
――だ。誰が消したんだよ! それに、僕の頭を殴っておいてそのまま放っておくなんて、悪戯にもほどがある!
頭の後ろを触ってみる。
ちょっと血が出てる程度。傷は大きくは無いようだ。
ドア付近まで移動し、電気を点ける。時計の文字盤が見えた――なんと、夜中十二時の五分前! 随分長いこと、僕はここで倒れていたらしい。
とりあえず教室の電気を消し、廊下に出る。
来た時よりも、更に暗い。ちらつく非常灯の明かりの中、おぼつかない足取りで廊下を進む。
――誰の悪戯なのか、明日、必ず突き止めてやる! とりあえず今日のところは、夜も遅いし、うちに帰るとしようか。
さあ、もうちょっとで玄関――というときだった。な、なんということだ。急にトイレに行きたくなってしまった。それも、大きい方。
――仕方がない。
僕は少し廊下を引き返し、一階の職員室に近い、トイレに入った。
ぱちっと電気を点け、奥に進む。
当たり前だが、誰もいない。あの、悪戯野郎は、もうとっくに自分の家に帰ってるんだろうし。僕だけ残して帰るなんて、本当、最低な奴だ。
とりあえず、三つあるうちの、真ん中の扉の中へ。かちゃっと鍵――横に取っ手をスライドさせるタイプ――を掛けた。誰もいないんだろうけど、一応だ。
教室で目を覚ましてから、五分くらいは経っただろうか。つまりは、十二時、日付の変わった頃。あともうちょっとで終わる――というときに、なんだか嫌な空気が立ち込める。
廊下の方から聞こえて来た、微かな音。
――足音? 誰かいる? そんな馬鹿な!
便座に座りながら、耳を澄ます。
ヒタッ……
――やっぱり聞こえる!
ヒタッ……ヒタッ……
――間違いない! 誰かこちらに向かって来る!
無防備な格好の僕は、身動きができない。そのまま息を止め、「足音の主」が何処かへと通り過ぎるのを、待つことにした。
ヒタッ……ヒタッ……ヒタッ。
入り口の辺りで、ピタリ、止まった、その足音。遂に、このトイレの前にやって来たらしい。
「誰、そこにいるのは! 僕を殴った奴なのか!」
僕はあらん限りの声で、叫んだ。
……。
何の返事もない。でも気配は、確実にある。となれば、警備員さんじゃないな。きっと、僕を殴った、度の過ぎた悪戯者に違いない。
――これは黙ってなんかいられない!
僕はすぐにトイレの外に出て文句を云うべく、まずは拭くものを拭いてからと、トレペを探った。右手を伸ばし、銀色の金属の押え板の下の、ひんやりとした紙の手触りを確かめる。
からん……
――え? どういうこと?
言葉も出ないとは、まさにこのこと。
トレペの……そう、シングルロールの薄っぺらいトレペの巻物は、からん、というあまりに頼りなく、そして、切ない音だけを残し、回転を止めてしまったのだ。
僕の手元に残ったのは、なんと、たった1センチの長さの、薄い紙。まさに天女の羽衣の如く、その先が透けて見えるほどのものだった。
「くそっ! まじかよっ!」
今までの鬱憤を晴らすかのような、大声。
そりゃ、そうでしょ――1センチの紙で、しかもシングルロール、ウォシュレットもない――この状態で、どうやって僕の「お尻」を綺麗にすればいいと?
とそのとき、また聞こえ出した、あの、床にねっとり張り付くような、嫌な足音。
ヒタッ……ヒタッ……ヒタッ……ヒタッ。
どうやら、その足音の主は、僕の入っている個室のドアの前にまで、進んできたようだ。ドアの下の1センチほどの空間に、淡いながらも、人影らしき影が見えた。
「お前、俺を殴って気絶させた奴だろ! もういい、わかった。許してやるから、僕に新しいトレペをくれ!」
……。
奴は、何もしゃべらなかった。
あるのはやはり――その気配だけ。
「頼むって! だからすぐにトレペをくれよ!」
……。
と、突然、扉の鍵が、バン、と勝手に横にスライドし、鍵が……開いたんだ!
――え? 鍵って外から動かせたっけ?
僕は、急いでそれを右手で、ばん、と元に戻し、また鍵のかかった状態にした。
はあ、はあっ!
上がっていく、息。当然だ。今起こったことが、理解できないのだから!
と、直ぐにまたバン、と音がして鍵がスライド――やっぱり、勝手に開いてるっ!
――ひ、ひぃぃぃ!
直ぐに両手で鍵に力を加え、もう一度鍵を閉める。
ばんっ!
と、またその直後に動く、レバー。
開いた鍵を、僕は必死になって、再び閉める。
バン! ―― ばんっ! ―― バン! ―― ばんっ!
そうやって、何度も何度も繰り返された、深夜のトイレの『鍵合戦』。
ありえない……
だって、ドアの鍵が――
閉めても…閉めても……閉まらない――のだからっ!
――そんなばかなことがあって、たまるもんか!
認めたくない、事実。でも、これが現実。そして、真実。
僕の背筋が、まるで温暖化した地球に突然訪れた氷河期の如く、零下五十℃の冷気に曝されて、ピキピキと音を立てて凍り始めた。
「こ、この鍵、どうなってんだよ! なんで、勝手に開くの? そ、そうか――この鍵、壊れてるんだな? それなら明日、先生に云って、直してもらわなくちゃ――
……でも待てよ? そうか、もしかしてコイツ、僕が紙をよこせと云ったから、鍵を開けようとしてるのかもしれない……」
僕は、外にいる得体の知れない存在に、訴えた。
「トレペは上から投げてくれればいい。いちいち、ドアを開けなくていいんだ!」
……。
外の存在は、納得したらしい。鍵が動く――どうやって奴が動かしているのかは解らないが――ことはなくなった。
しばらく続いた、沈黙。
と、上の隙間から新品のトレペが一巻――降って来た。僕の膝の上に、着地。
――やった!
僕は、小躍りしたくなる気持ちを抑え、まずはロールを所定の位置にセットして、紙をカラコロと、引き出した。
――助かったぁ
とりあえず、水を流す。去りゆく、我が分身たち。
そんな、人生における憩いのひととき――幸せの絶頂ともいえる、そんな瞬間。
ドアの下の1センチもないほどの隙間から、何やら一枚の紙が、すーっと押し込まれるように、入って来た。
――何これ?
手のひらサイズの紙。よく見ると二枚綴り。一枚目の紙に書かれていた言葉、それは――『請求書』という文字だった。
――はあ? お金を取るわけ? トレペ一巻で?
二枚目が気になり、表の紙を、ぺらり、めくってみる。現れた文字は――『領収書』。そして、その下に並んでいた言葉は――
『トイレットペーパーの代償として、貴殿の命を正に受け取りました』
押された、赤インクの印鑑。丸い枠の中に刻まれているのは――『死神』の文字!
――死神? 命?? 受け取った???
その意味の理解に苦しむ僕の隙を突き、バン、という音とともに、再び扉の鍵が開く。
そして――
内側に開くはずのドアが――
何故か外に向かって――
バタリ、突然に――
開いたッ!
どーん。耳鳴りの音。
夏の夜の校舎内なのに、何故か吹き込む、ひんやり冷たい空気。辺りは、靄がかかっていく。
――声が出ない。瞬きもできない。
黒いマントに身を包み、きらりと光る白銀の大鎌を手にした『死神』は、僕の目前で、空中に漂うように立っていた。
表情はわからない。何せ、顔の部分にあるのは――暗闇。すべてが宇宙の果てまで吸い込まれるかのような、ブラックホールの如き暗黒の世界だったのだ。
……。
と、そのとき、目前の『死神』が、手に持った大鎌を振りかざす。
一瞬の旋風。そして……
僕の世界が、くるくると勢いよく、回転した。
The End……
……残り1センチで拭く練習は、怠りなきよう!